ピンキーの才智、カインの勇気

 9月の末から週に一回、障害学生のためのサポートグループをしている。大学が今学期からはじめたパイロットプログラムの一つで、何か問題があるとすぐにカウンセラーやスタッフを頼ってくる依存度の強い学生を少しでも減らし、学生自身が互いに助け教え合う環境を育てようという学生課のサービス向上5カ年計画の第一歩である。私たちスタッフのサービスの質を上げるために、学生から直接コメントや批判を受ける場であり、全体に学生同士、学生と職員間の多方面相互扶助(セルフヘルプ)の度合いを高める意図がある。他のカウンセラーには男性のグループとか専門学部ごとのグループをしている人があり、障害学生サービスセンター勤務の私には障害学生対象のグループを任命された。
 約2ヶ月の間、前半は主にキャンパスやコミュニティ環境のこと、後半に入ってからは主に自分自身の長所や短所など内面を考えていくような全8週間のプログラムを用意した。メンバーは18-20歳の大学に入学して間もない面々を7人を相性などを考えて選んだ。ただし、プログラム参加にあたっては最初に契約を結び、あくまで自由意志(ボランティア)によるものであり、いつでも抜ける自由があることを確認した。すると時間が経つにつれ、いつも参加する中核メンバーがほぼ4,5人に固まってきた。
通勤途中。日が短くなって運転中に夜が明ける

 先週のグループで彼らから学ぶことが大いにあった。参加者の一人、ピンキーには明らかに見てわかる障害と学習障害がある。幼少期にはその目立つ身体特徴のためによくいじめられたということ、今でも好奇の目や心無いコメントに出会うが、そういう無知や非礼をいかにうまくかわしてきたかシェアしてくれた。例えば「友達から『お前、大学に行くんだって?そんなに頭よくないのによ』と言われたときは、『そのとおり、頭よくないから頭よくなりに大学に行くんだよ』と言ってやった」と言う話にはグループ一座が感嘆の声を上げた。
 もう一人はマギー。彼女にも見てすぐわかる特別な身体と顔の障害がある。「よくまじまじを顔を見られるけど、そういう失礼なことをする位なら『あなたの身体特徴はどうしてそうなったのか』とまっすぐ聞いてほしいわね。そうすればちゃんと教えてあげるのに」と言う。そういうことを聞くこと自体がタブーと思っている非障害者に対するアンチテーゼである。
 そして最後の一人カインには全く謙虚にさせられた。実はグループが始まる前、私は彼ともう一人のメンバーと3人で部屋にいたのだが、普段はおとなしい彼がいきなり私にこう言った。「ミホ(私の名前)、あのさ、今日は最初にディスカッションのテーマを出したらさ、その後はちょっと黙っててくれない?僕たちちゃんと話すことあるからさ」。パイロットプログラムを成功させようと肩肘張ってテーマや話す内容などをきちんと準備し筋道立ててグループをリードしてきたことが裏目に出た。日本文化は「沈黙は金」であったはず。「雄弁は銀」でしかないことを、このハワイアンのカインから改めて教えられた。それにしても言いにくかっただろうと思い、「いや、正直に言っくれてありがとう。『この人は話せばわかる』と思ってくれたから言ってくれたんだよねー。そう思ってもらってうれしい、光栄です!」と言ったら、「いや、ちょっとリマインドしたまで」と言って笑った。
Remind-前に言われて知ってるはずのことを思いださせるよう注意を喚起すること

延長テスト時間

 アメリカの大学で、障害があると自認する学生の約4割までに学習障害があるというデータがある。この数字は私の勤務場所にも当てはまる。そして学習障害のある学生のほとんどが「テスト時間の延長」という合理的配慮(アコモデーション)を受けている。これは例えば、非障害学生に対するテスト時間の1.5-2倍の長さの時間、同じテストを受けてよいということだ。普通のテスト時間が1時間なら1.5-2時間ということになる。ヒロのコミュニティカレッジでは1.5倍だが、私が10年以上前に通ったサンフランシスコの大学では2倍だった。
 これだけ聞くとお金もかからず便利な合理的配慮に聞こえるかもしれないが、実はいろいろと問題がある。アメリカの多くの大学では、約15分ほどの休憩時間をはさんで朝から夕方までぎっしりと背中合わせにクラスが詰まっている。ということは1.5-2倍のテスト時間延長を受けるためには同じ教室ではテストが受けられない。前のクラスや次のクラスが迫っているので場所を移動しなければならないからだ。また、前後のクラスが空いていて仮に2倍のテスト時間が同じ教室内で可能だとしても、他の学生よりも早めに来てテストを始めたり、他の学生が退室した後も残ってテストを受けるようになると、他の学生が「なんでこの人は開始前からテストを受けているのか」とか「どうしてこの人はテスト時間終了になっても居残っていられるのか」というように、非障害学生からの好奇の目にさらされることになる。また好奇の目にさらされなくとも、自分のテスト時間中に他の学生が入ってきたり出て行ったりするのは気が散って、テスト環境としてよいとは言えない。

野菜を入れてきた箱をカウンターに置きっぱなしにしたら。。。。

 それで、別室受験という方法があるが、これも「あれ、あの人はテストを受けなかったのに、なんで答案用紙が返却されたのだろう」という疑問を受けるかもしれない。この方法も、特に障害を明らかにしたくない学生の場合、ストレスの原因になりうる。私の知るある男子学生も、「もしクラスメートに『何で早くから来てテストしてるの』って聞かれたら、面倒だから『おれも知らないよ、先生が早く来いっていったんだよ』ととぼける」と教えてくれた。これは、学習障害という目に見えない障害がまだまだ一般社会からは理解されていないことの反映である。この男子学生も他人からの好奇の目に耐えたり、堂々と自らの障害をオープンに宣言したりすることがまだできないために、障害を隠すほうを選んでいる。彼は「知らない人は信用できないから」とも言う。高校までと違って、様々なクラスをばらばらに個人的にとる大学では、ただ一度きりのクラスメートで一生を終わるか、今後も何学期か一緒にクラスをとることがあって仲良くなるかどうか最初からわからない。この男子学生の場合は高校卒業後初めての大学の学期をとっているので、特に不信感が強いのだろう。
 「自分の障害を隠したり、『他人を信用できない』という気持ちはよくわかる。そういう行動をあなたにとらせているのは、住んでる社会があなたの障害をどうみているかの反映だからね」と私は彼に言った。すると彼は、「えっ?」というような顔を一瞬したが、自分の気持ちを初めて理解してもらったというような安堵の表情になった。
 たかがテスト時間の延長だが、教師にとって考慮することは多い。

マルチセンソリー・ティーチング

 昨日は土曜日で普段なら寝週末と決め込むのだが、興味深いセミナーがあったので朝からヒロまで行って来た。セミナーのタイトルは、「ニューメディア・アカデミア:新しい教育環境における学習法・教授法」というもので、学習教材を主に作っている大手出版社の主催だった。最初に3人の教授が「われわれはどう教えるか」、次に3人の学生が「われわれはどう学ぶか」をそれぞれパネルディスカッションし、この数年激変しつつあるメディア環境において、それらをどう活用しながら教え、また学ぶ効果を高めていくかを話し合った。
 実に様々な角度から多様なディスカッションが出た中で、特に私の注意を引いたのが次の点だ。まず、学生パネルの一人が、「教授の中に板書する内容をアイパッドに書いて(タイプして)それをプロジェクターでスクリーンに映しながら授業する先生がいた。授業後彼はその内容をそっくりクラス特定のオンライン掲示板にアップロードしたので、出席した学生はそれを見て復習でき、また欠席した人でもクラス内容がわかって、とても学習に役立った」とコメントした。このセミナーは教育における新メディアの利用が焦点で、特に障害学生のためにというわけではなかったが、このようなオンラインベースの板書法だと障害学生に対するサポート効果も大だと思った。テキストリーダーやメディア・プレーヤーを使えば学習障害や視覚障害のある学生にも役に立つ。
散歩の途中で。朝日を受けるハプウ(シダの木)

 また、コミュニケーションのクラスを教えている教授パネルの一人は「オンラインベースのクラスだと、教室ではとても静かで後ろに座るような学生が期せずしてチャットやブログなどではとても雄弁だったりシャープなコメントをしたりして、学生の様々な面を知ることができてよい」と発言した。特にアジア・太平洋地域からの移民の子孫が多いハワイ大学では、シャイな学生はアメリカ全国平均より多い。典型的なアメリカ本土の大学では往々にして、教室でいかに多く発言したか、リーダーシップをとったかなどが成績評価の一部になることが多いが、オンラインベースのチャットやディスカッションを取り入れると内向的な学生も参加しやすくなる、という点は、言語障害や一部の精神障害のある人など、公けの場での発言に困難を感じる学生にも大いに当てはまる。
 最も感銘を受けたのは、地学を教える教授のマルチセンソリー・ティーチング。人間の五感すべてに訴える多感覚教授法という意味だ。彼は自分の授業をすべて毎回録音しビジュアル教材もクラス特定のオンライン掲示板にアップデートする。中間と期末時期にはオンラインの評価システムを利用してこれまでの授業内容が問題なく入手できたか、内容はわかりやすかったかなどの評価を学生から得る。これはインターネットで無料で使える無記名のアンケート、誰が何をコメントしたかわからないようになっており率直な意見が聞けるとともに、書いた内容によって学生自身の成績には影響しないようになっている。コメントのなかでこれは、と思うものがあれば早速取り入れる。さらにクラス特有のフェイスブック・ページがあって誰でも投稿できる。ツィッターも利用。課外学習のときなどために自身のテキスト(文字)電話番号を公表し、クラスの学生全員それぞれとの意思疎通を万全にはかる。「フェイスブックやツィッターには迷惑をこうむることもあるけど、今の学生のコミュニケーション方法に合わせると利点のほうが多い」という。ただし、「伝統的な生身の人間同士のコミュニケーションと一人静かに時間を持つことの大切さも密かに教えるテーマとして持っている」とも。そして自分自身ハワイ大学で2つの授業を受ける学生でもある。「教えることと学ぶことの根は一つ」という哲学の持ち主だ。学ぶ姿勢を忘れたらよい教師になれない、ということなのだろう。彼のクラスをとてもとってみたくなった。

「特別支援ラボ」

 金曜日、上司も同僚も休みだったので一人でラボにいた。金曜日はもともと授業があまりないので普段は余り忙しくないのだが、午後2時過ぎになって同時に二人来た。一人は中年のハリーで私の上司に会いに来たという。「もしかすると私でも役に立てるかもしれないけど」と言うと、来春の入学を認められたのでメールアドレスを作ったり、オリエンテーションの予約をオンラインでしなくてはならないという。そしてこれまでにコンピューターをさわったことがないとも加えた。オンラインで必要なページを開くといろいろと情報をキーボードで入力するようになっている。ハリーはまず自分の名前をタイプするところから始めた。「名前の最初の文字はいつも大文字だからシフトキーを押しながら打ってね」などと、普通ならば15分くらいですむ内容を1時間以上かけて手伝った。
我が家とお隣さんの間のフェンスをとって新しくティの木で垣根を作り始めたところ。ティの木はよく家の前やフラのステージに飾られる「幸福の木」

 もう一人の訪問者はやはり中年女性のクッキー。以前にも何回か宿題をやりにラボに来たことがあるが、いつも欲求不満状態で来る。なぜかというと、彼女は基本のタイピングクラスをとっているのだが、内容が初歩でも最近はほとんどの基本クラスがオンラインの教材を使うため、コンピューターのどこをどういじると必要なページが現れ、そしてそのレッスンをこなしたあとどうやってセーブしたりアップロードしたりするのかなど、宿題内容そのものにたどりつくまでが一苦労なのだ。それができないので欲求不満になってラボに来ていつも愚痴るのだが、「それを何とかしようと思ってラボまで来たんだから、問題解決のための第一歩をまずあなたは自分からとったということですばらしいことよ。ラボで第二歩をとればいいだけ」と盛んにおだてるとちょっと気分が落ち着いたのか自分からコンピューターの前に座った。そして宿題を何とか終えてそれをまたオンラインサイトにアップするところでつまづき、またいらいらし始めていた。私が「それそれ、そこのボタンを押して」などと、隣の席のハリーのコンピュータースクリーンと交互にみながら手伝って、彼女はアップロードにこぎつけた。「ここへ来ればいつも誰かがヘルプできるからもっとちょくちょく頻繁に来れば」というとほっとした様子でラボを去っていった。
 10年くらい前までは紙と鉛筆と黒板でしていた講義スタイルは、今やほとんどが別の会社で作られたオンライン講座を利用したレディメード授業に成り代わりつつある。私のラボに来る多くの学生が履修する基礎的な英語や数学はすべてこのクッキーカッタースタイル(金太郎飴式)の授業を受けている。
 講師にとっては楽になったかも知れないが、コンピューターをさわったこともない中年以上の障害学生にとっては、授業内容そのものにたどりつくまでに様々な基本的ITの操作知識を持たなければならない。そしてそういう基本的なIT知識を教えるところは今のところキャンパス内にはどこにもない。というわけでいつも「今日はひまになるかな」と思う日に限って忙しくなる。「ここしか助けてくれるところがないから来る」という言葉を障害学生から聞くと、自分のところしかできないことがある、というエゴを満たされていい気持ちになる反面、世の中一般(この場合は普通大学のキャンパス全体)が障害学生のニーズをはじめから考慮して対応できていれば、コクアラボのような「特別支援ラボ」は必要なくなるな、とも思う。

何かを変えるということは

 9月3日号でコクア・ラボが西洋近代式の個別テクノロジーラボに変わったと書いた。がその後、あまりに障害学生の評判が悪いのと、学生部長自身が考えを和らげたのか、18日のミーティングの結果、「誰でも利用できるマルチ・メディア・ラボ」に再び変わった。ただし、障害学生でアシスティブ・テクノロジー・プログラムを利用する人が最優先という条件つきである。悪かった評判の中でも多かったのが、「他の普通ラボではコクア・ラボのようなきめ細かいサポートが得られない」というので、追い出されていた学生たちが大喜びでコクア・ラボに帰ってきた。「隣の(普通の)ラボでいろいろ質問すると、周りの学生が『こいつ、こんな簡単なことも知らないのか』という目でチラチラと私のほうを見るので恥ずかしかった」と、里帰りしたアンナが言う。
一日で咲いてしぼんでしまうディ・リリー

 初代ラボは障害学生だけのためのマルチ目的部屋。先代ラボは極端な西洋式個別テクノロジー・ラボ。紆余曲折の結果、この二つのよいところを集め、混んでいなければ非障害者(家族や友人)も使える「誰でも利用できるテクノロジー・ラボ」に、今回晴れてなった。何かを変えるには、利用者の声と支援者全員のサポートがかみ合っていないと無理だ、ということの好例だ。コクア・ラボだけ変わろうとしても、普通ラボのスタッフや非障害学生の理解とサポートがなかったから無理だったのだ。自分ひとりで大変換しようと思ってもなかなか難しいということなのだろう。
 40年以上前にカリフォルニア州で、知的障害者を閉鎖病棟のような大型収容施設から地域社会へ安全に送り出すために、かなりの時間とお金をかけてコミュニティ側のサポート体制を統合的に整えた。そのために法律もつくった。それがグループ・ホームであり、ディ・サービスであり、自立支援コーチであり、ジョブ・コーチであった。日本でもこれから障害児は特別支援学級だけでなく本人や保護者(利用者)の意思を取り入れて普通学級でも支援できるようにするというメインストリーム化の話を聞いた。自分たち(文科省)だけが変わるのではなく、障害児に関わるすべての教育者、非障害クラスメートやその親たち、また地域社会全体のサポートがなければ、この話も絵に描いた餅に終わってしまうだろう。理念を実現するには現実的なプランが必要だ。そのことをコクア・ラボの二転三転の変化を通して如実に感じている。

ゴー・アンド・ビヨンド(I)☆

 9月も半ばを過ぎてやっと今学期のノートテーカーの顔ぶれがそろった。昨日まで毎日のように学生アルバイトであるこの職の応募者が絶えなかった。というのは面接の結果採用となった学生でも、家庭・健康・経済事情のためすぐやめざるを得ない人が何人かいたからだ。これは何も今学期に限ったわけでなく、私が2年前にこの仕事について以来、毎学期の慣わしとなっている。日本と違って自給自足の学生が多いのと、学業そのものがとても厳しいのが二大原因だろう。だから、ノートテーカーをはじめとするどのキャンパス・ジョブ(構内職)も、「週に20時間以上は働いてはいけない」というルールがある。成績不良の学生はキャンパス・ジョブができないので、まずは本業の学業に専念してもらうためだ。
 先日、新規採用になったばかりのジョディがラボにやって来た。「ノートテーカーの就業規則には『障害学生のためにノートをとる以外のことをしてはいけない』というのがあるが、もしかしたら私はそれを破ってしまったかもしれない」という。事情を聞くと、彼女がヘルプしている障害学生が「授業中感情を害して怒りっぽくなっていくのでなだめすかし懇々と諭した。授業が終わっても10分くらいそれが続いてやっと彼は落ち着いた。すると今度は逆に信用されてしまい『授業が終わってからチューター(家庭教師)をしてほしい』といわれたので『それは職務に反する』とまた懇々と諭した。全部でこの会話に要した時間は30分くらい。今から考えてみればノートテーカー以上のことをしてしまったかもしれない」という。
昨晩友人と食べた地元産のラム(子羊)バーベキュー(右側)。カウ地区バーニーさんの牧場産で、甘くて旨みがあって何よりも安全に食べられるのがうれしい。プレートは近所の陶芸家ロン・ハナタニさんの作

 即座に私は「すばらしい!」とジョディに言ってしまった。「確かにノートテーカーの仕事には就業規則があるが、それは皆に最低限のことをしてもらうための最低ライン。それらの基準を超えて障害のある学生を助けたい、という気持ちが純粋にあるなら、今日のように私とコミュニケーションをとってくれさえすれば、逆に大歓迎」と彼女に言った。するとジョディは安堵した様子を見せ、「よかった。事情が事情で連絡する間もなく、私が信じることをとっさにしたまでだが、あとから就業規則のことを考えてヒヤッとした」と言う。
 私はジョディのように豊富な人生経験を生かして(ジョディには障害のある息子が2人いる)、緊急事態が出来したときには迅速に的確な判断をし行動できるような学生がノートテーカーの職に応募してくるのをひそかに願っているのだが、そこは大学だから、実際は下は18歳から上は60歳代までの様々な人生を抱えた人が応募してくる。各学期が始まる前に必要なノートテーカーの数をそろえるのはいつも至難の業で、余り好ましくないタイプの学生が早くに応募してくることも多々あって、なかなかベストな人材を最初からそろえることができない。
 ジョディは学期が始まってから応募してきた後発組だか、この日は、彼女がいかにノートテーカーの職務基準を意識しつつ、ゴー・アンド・ビヨンドの仕事もこなしていることを知り胸が一杯になった。というのも、私の仕事の成否は優良な人材をいかに早くに集めるかにかかっているからだ。サンキュー、ジョディ!

☆ゴー・アンド・ビヨンド(Go and Beyond)−職場でよく使われる英語表現。実際の職務基準を超えてさらに様々な他の仕事を自発的にこなしている職員を褒めるときによく、彼女はゴー・アンド・ビヨンドでこれこれこういう仕事もした、などと言う。

サポートの東西アプローチ

 新学期が始まり早や二週間。新しく始まった学生サポートプログラムが2つある。一つは私の勤めるコクア・ラボが最新テクノロジー・ラボに新生したことだ。夏までは障害学生サービスセンターに登録した学生なら誰でも利用できた。宿題をしたり、奨学金・助成金の申請をしたり、情報を集めたり、余り周りに人がいなければスタッフと話しこんだり、と比較的何をしてもいい多目的ラボだった。それが今秋からカーズワイルとドラゴン・ナチュラリー・スピーキング☆☆という2つの最新テクノロジー・ソフトウェアを使う学生のみ利用できるラボに変わった。ラボの見た目も、一人ひとりがプライバシーを保てる半コンパートメントブースが並び、以前の集団大部屋状態から個人利用への変化が明らかである。
ハワイではなぜか赤くなってしまうシソ。右の鉢はビーツ。奥は野放しのねぎ坊主

 このため私たちラボのスタッフは、以前からラボを利用している学生に対してこの2つのテクノロジー以外の目的でラボを使うことはできなくなったことをいわなければならなくなった。これは「最新テクノロジー以外の利用者はほかのコンピューターラボへ行って」ということで、旧ラボに親しんだ学生たちには青天の霹靂。学生たちの評判も悪く、「ほかのラボじゃいいヘルプが受けられないのに」、「ここのほうが便利だったんだけど」とか、果ては「障害学生を差別しているのか!」と憤る人まで出る始末。ラボの利用目的変換は学生部長の指示だから仕方がないにしても、これまでのラボが雑然とした感じで何のために来てもよかったのに対して、今のラボはきちんと役割を最新テクノロジーラボと銘打っている。東洋から西洋的アプローチへの変化とそれに対する反感、ということか。
 もう一つの新規サポートプログラムは、日本人女性のためのサポートグループ。ハワイ大学ヒロ校のカウンセリングセンターを訪ねる日本人女学生が増えたということで始められた。そのチラシをみると「日本人女性のためのお茶会」になっている。「日本人女性のためのグループ・カウンセリング」などと銘打ったらたぶん怖気づいてほとんど来ないだろう。お茶を飲みお菓子をつまみながら世間話をし、互いのことをある程度知った上でないと本音が出てこない、という日本文化をよく理解したロシア人カウンセラーのアイディアである。カウンセリングは西洋が起源で今でも主流は認知行動療法など西洋的なアプローチだが、ここハワイは人口の過半数をアジア・太平洋地区の移民が占めるため、お茶会などアジア的アプローチを取り入れたサポートグループが有効と考えたのだ。これは西洋から東洋的アプローチへの変化といえる。
 新たに始まった2つのサポートプログラムが、太平洋の両岸からそれぞれ正反対の方向へ変化しているのを興味深く思った。

☆Kursweil 3000−印刷された文字を音声変換するテキスト・リーダー
☆☆Dragon Naturally Speaking−音声を文字に変換する音声認識ソフト