「合理的配慮」の合理性

  国連障がい者権利条約の中で、日本語になかなかうまく訳せない概念に「合理的配慮」がある。日本でもどういう「配慮」ならば「合理的」なのか、争点になっているときく。
  配慮の仕方が最もわかりやすいのは、外から目に見える障がい、たとえば全盲の人に対する盲導犬や白い杖、手話で育った全聾の人に対する手話通訳、あるいは歩行障がい者に対する車椅子だろう。これらは配慮を提供するほうも障がい者本人にとっても、どういう障がいでどういう配慮が必要か、理解も説明もしやすい。これに対し、目に見えにくい障がい、たとえば難聴者、弱視者、サポートなしで歩けるが歩行が困難な下肢障がい者に対する配慮はわかりにくい。同じ障がいでも障がいの質や程度に個人差があり、必要な配慮が異なるからだ。難聴者でも補聴器をするだけで音声情報が十分にわかる人もいれば、ほとんど聾に近く音声情報はすべて視覚化しなければならない人がいる。ただ「難聴」と聞いただけでは配慮を提供するほうも、難聴者本人にとっても障がいの理解や配慮の説明が難しい。外から見えない障がいの中には、稀な難病やある種の精神・神経障害など説明なしではまったく理解不能な障がいもある。どんな障がいで実生活上の困難は何なのか、障がい名を聞いただけではまったくわからない。この障がいに属する人の数は全世界的に増えており、彼らにかかわる雇用者や福祉の関係者にはますますトレーニングが必要になってきている。 
裏庭に咲いた沖縄ザクラ
  
私はハワイ島にのヒロという町にあるコミュニティ・カレッジ(1)で障がい学生のためにサポートを提供する障がい学生サービスセンターで働いている。この10年の間に見えない障がいを持つ学生の数はうなぎ上りで、ぱっと見には何の障がいでセンターへやってくるのか、まったくわからない学生が多い。こういう時、サポートする側にとって重要なのは「傾聴」と「無偏見」の心(2)だ。また、障がい学生のほうにとっては、自分の障がいをいか正しく理解し、またいかに他人にわかりやすく説明できるか、つまり「セルフ・アドボカシー」の力が最も大事になる。私は障がい者でありながら「配慮」の提供者なので、上記の両方の力を鍛えなければならない。障がい者だから障がい者のことはよくわかる、というかつての理屈はあてにならないほどに現実は多様化している。
  センターに登録している学生の中に、脳障害のため短期記憶力が極端に劣る青年、アンディ君がいる。彼は4歳のときに窒息して脳への酸素供給が長く途絶えたために脳の半分の機能を失った。なんとか生命は保ったものの、重い記憶障害が残った。ぱっと見には五体満足に見えるが短期の記憶がまるでなく、さっき聞いたことも忘れてしまう。認知症の症状に似ているのだが、歳が若いため周囲に理解されにくい。
  アンディ君は料理学部の学生で、早速担当教授にも自分の障がいのことを説明している。習ったことを記憶できないから、テストはオープンブック(教科書やノートなど資料を見て解答する方法)でテストを受けてよい、という「合理的配慮」を受けている。テストを受ける場所も個室で、非障がいのクラスメートの2倍のテスト時間も与えられている。それでも最近落ち込んで見えたのでいろいろ聞いてみると、テストに対する配慮は合理的でも厨房での実技がうまくいっていないらしい。実技のやり方は、月曜から金曜までの5日間、5つの班が5つの厨房をぐるぐる回って毎日違うことを学ぶ。一度学んだことが一週間後になって繰り返されるので、前にやったことをなかなか思い出せないということだった。「同じ厨房で同じことを5日間続けてから次の厨房に移れば、もっとよく覚えられるのに」とアンディ君はつぶやいた。
  私はこのつぶやきに宝が隠されているのに気づいた。料理学部の担当教授はその道何十年のプロ。長年の教え方に対する自負や班学習に対する工夫と成果もあるのだろう。でも、ある程度の期間同じ厨房での実技を反復学習して、ソラでもできるようになってから次の厨房に進むような方法をとってあげることができれば、もしかするとそれはユニークな脳障がいを持つアンディ君にとっては最も「合理的な配慮」なのではないかと思った。

1)コミュニティ・カレッジ―2年制の短期大学にあたるが、日本のそれとイメージがかなり違う。まず高校の卒業証書さえあれば誰でも入学でき、一クラスから受講できる。社会人やリタイア後の中高年も多くいて、キャリアアップ講座やカルチャーセンターの役目を果たしている。若い学生にとっては4年制総合大学の一般教養学部の役割がある。アメリカでは4年制の大学に最初から入学するとかなり学費が高いので、自活する多くの学生はコスト削減のため、まず短期大学に2年通って一般教養の単位を取得してから4年制大学へ3年次転入という方法をとる。
2)「傾聴」と「無偏見」―カウンセリング技術の基本。それぞれアテンティブ・リスニングとノン・ジャッジメントいう。自分の主観や経験に基づく判断や偏見を捨てて相手の言っていることをありのままに共感を持って聴くこと。簡単なようで実に難しい。