ボトム・アップの障がい福祉

 障がい学生サービスセンターで働く私は、大学の組織からいうと学生サービス部の中のカウンセリング課に属していることになる。教官たちが休みの今が一番忙しい。というのは新学期を控え、新入生のオリエンテーションとガイダンスがあるからだ。6月から8月中旬まで毎日この準備に追われる。週一日は高校新卒向け、もう一日は社会人入学者対象に約3時間に及ぶオリエンテーションをする。
 大学生になるための準備や心構えに始まり、授業登録の仕方、問題があったときの援助サービスの紹介にいたるまで、こまごまと説明をするのだが、その中で10分ほど、私は障がい学生サービスセンターとコクア・ラボの説明をする時間を与えられている。「障がいのある方は障がい学生サービス課までお越しください」と、いつもはポイントだけ押さえて言うのだが、先週はたまたまラボで働いていた学生アルバイトのピートと一緒にこの発表をしてみた。基本の情報説明をいつものようにした後で、突如、以下のようなアドリブが出た。
宮城県亘理町の鳥の海湾にかかる歩道橋。今でもこの白いバンとボートはのっかっているのだろうか。6月中旬撮影

 私:「ねえ、私たち二人とも障がいがあるけど、大学のクラスは大丈夫だったわよね。卒業もできたし」
 ピート:「まあね。大変なこともあったけど。人はみんな何らかの障がいをもっているものなんだよね。唯一の違いは、僕たちには障がいについていろいろ書かれた紙があるってこと」
 私:「そうね。私たちはたまたま『書類送検』になっただけよね」
すると、それまでわりと真剣に説明を聞いていた50人ほどの新入生がどっと笑った。
 私はこのピートのいう「ひとにはみな障がいがある」というスタンスが教育関係者や障がい福祉に従事する人には必須だと思っている。「自分は障がいのない健常者だがあなたには障がいがあるから助けてあげる」という考えは、障がいと健常の間にはっきりとした境界線があり二分割できるということで、こういう思考はチャリティー(慈善事業)とか政府の生活保護課に任せる。これに対して、「私とあなたは同じ人間で違いは障がいの内容と程度だけ」という考えは、障がいには連続性があり、人はすべてその連続した線上のどこかに位置するという見方で、障がい者の社会参加には不可欠な思考だ。そしてこの連続的・継続的な障がい観は、障がい者自身のエンパワメントになりまた、セルフ・アドボカシー力☆をつけることにもなる。これはトップ・ダウンのチャリティー思考に対して、「草の根」の底力をつける下から上へのボトム・アップ思考だ。
 ピートの上の言葉は彼の豊かな人生経験の賜物だ。今65歳で学位は4つくらい持っている(いったい全部でいくつなのか私も知らない)。若いときはエマージェンシー・ルーム(急患)の看護士で、悲劇をいくつも目撃してきた。そしてゲイ(ホモセクシュアル)でもある。人生の辛酸をなめつくしてきたからこそ「人間みな障がい者」ということが真実味をもっていえるのだろう。余生(というにはまだ若いが)はお金と体の続く限り学生でいたいという。
 私は学生アルバイトを常時10人以上総括する立場にありながら、ピートのような老練の学生から人生についていつも学ばされている。
☆自分で自分の障がいをきちんと理解し周囲にもわかりやすく説明をして、生活上必要なサポートを合理的に要求することのできる力(筆者解釈)