話せばわかる社会とレジリエンス

 私の好きな英単語にresilience(レジリエンス)というのがある。日本語の根性とか不屈の精神に似ているが、日本語に比べると苦しみに耐えて、という感じは英語にはあまりなく、どちらかというと人間が自然にもっている精神的肉体的治癒力の感じがある。日本語の概念を探すとあまりぴたっとくる言葉がないのだが、「七転び八起き」、いやたぶん「柔よく剛を制す」あたりだろうか。傍目には不利な条件がそろっていても持てる力を最大限に引き出し、逆に困難な相手や条件を克服する力だ。スポーツ界でいえばかつての名横綱千代の富士が浮かぶ。アメリカンフットボールでは引退後15年を経ても今なお名将(クウォーターバック)と賞されるジョー・モンタナも柔よく剛を従えた好例だ。もちろん彼らは日々血のにじむような努力をしたには違いないが。
 私は毎日障がい学生と顔を合わせながら、彼らの中にレジリエンスがあるのを認めることが多い。先日もしばらく顔を見せなかったパティがやってきて言うには「脳に腫瘍が見つかって来週手術をするから、残りのクラス(二週間)に出席できない。残りのクラス課題は手術後ちゃんとやって提出したい。課題提出が締め切りに間に合わないので、締め切り後でも提出できるように計らっておきたい。ついては講師と学生部長にその説明をした手紙を書いたので見てほしい」。
我が家の裏庭で。ビーチチェアでくつろぐテトと首を長くしてうらやましげにみているモコ

 アメリカ社会にある制度がすべてすばらしいわけではないが、少なくとも大学にはアピール(appeal)という学生のための制度がある。つまりパティのように、病気や事故など自分の予知や管理調整能力の枠外の事件が学期中に発生し、そのためにクラスに出席できない場合はしかるべく証拠書類(彼女の場合は医者の診断書)と本人の陳情書を添えて学生部長に提出する。学生部長は陳情書に目を通して大学を代表して返事を書かなければならない。私の観察ではパティのように正真正銘な理由があればまず訴えは認められる。パティはおそらく手術後回復を待ってクラス課題を仕上げて提出し、その結果成績をもらうことになる。春学期が始まってしまうかもしれないが、こういった状況の学生には不利な条件を克服するまで寛容な時間を与えられる。このアピール制度は政府系機関や役所などにもあり、先日もスピード違反で捕まった夫は「絶対制限速度以上で走っていなかったのに!」と息巻いて陳情書を書いて裁判所に提出した。その結果しばらくして「交通違反を取り消す」という返事が裁判所から届いて罰金免除となった。
 交通違反にしろ大学の成績にしろある意味では、人間の人生は複雑ですべてシロクロでは判断できないという柔の考え方がまず法や社会制度の中にあるからこそ、そこに生きる人間にレジリエンスの力が育つのではないかと思う。「話せばわかる」人間的な社会や制度かどうか。どういう社会がどういう人間を育てるのか、相関関係がなくはないだろうか。