障がい受容からアクションへ

 私は今学期、仕事をしつつ大学院のクラスを一つ取っている。8月22日に開講して今週でもう半分が過ぎた。私は最初のクラスで自己紹介した時、「難聴なので大きな声ではっきりしゃべってください」と言い、同時に難聴者に対する離し方の注意点をイラストにしたパンフレットを配った。その前週には、担当教授にも自分の難聴のこととどういうコミュニケーションをとってほしいかをメールで送っておいた。このクラスは心理学の法と倫理のクラスで、教授は心理学者、クラスメート全員が将来は心理学者かカウンセラーになる。生徒が毎週交代で「講師」になってテキストの一章を「講義」し、その後はそのテーマに基づいてディスカッションする。幸い机はコの字型に配列されていてクラスメートの顔は見られるからいいものの、難聴者にとってはあまりありがたくない授業形式だ。17人だから特に大きなクラスではないが、補聴器とFM(補聴援助システム)だけでは対応しきれない。部屋の四方から声が飛び交うからだ。 
何屋の看板かわかったらかなりハワイ通。答えは本文の最後に

 第2週目から、クラスメートがどういうコミュニケーションをしてくれるか興味津々だったのだが、まあこうなることはわかっていた。つまり何も変わらないのだ。と言っても、みなが意地悪なのではない。普通の人間は、話し始めるとその内容に注意を払い、「どう」話すかという「ハウツー」には気がまわらない、まわったとしても30秒覚えていればまし、というアメリカの研究データがある。心理学者の卵のクラスでさえ例外ではない。なので、先週のクラスの前にクラスメートと教授宛に次のようなメールをした。「重度の難聴で皆さんの発言が時々わからないときがあります。できる範囲でいいので普段よりは大きな声ではっきりと話してくれると助かります」。その成果かどうかはわからないが、翌日の授業はかなりよく聞き取れた。それでその晩、みなに次のようなお礼メールをした。「意識的・無意識的にはっきりと大きな声で発言してくださってどうもありがとう。おかげで今日のクラスはほぼ聞き取れました。これからもよろしくお願いします」
 すると、数人のクラスメートから返信メールが来た。「うまく反応しているから聞こえているのかと思った」「遠慮しないで、わからないときはもっとそう言ったほうがいいよ」などなど。最も感動したのは次のメール。「私があなたにどのようなお手伝いができるか、今後も知らせ続けてください。私を含めたクラスメートの大半は、これまで難聴のクラスメートをもった経験がないのです。あなたのおかげで、自分とは異なるニーズのある人への意識を高めるチャンスができました。ありがとう」
 「自分とは異なるニーズのある人」という見方は、私を障がい者=福祉のお荷物とか情けを施さなければならない他人、というのではなくて、ディバーシティ(diversity)、つまり多様な個性をもった人の集団のなかで私とあなたは同等という観点である。最初のメールを書く前は、どういう反応をされるか心配だったがこのメールで元気百倍。表向きは何も変わらないように見えたクラスメートたちが、きちんと話してみればやっぱり心理学者かカウンセラーの卵だった。思い切ってアクションとってよかった。
☆写真の看板は魚屋さん。一番上は貝、下の三つは地元で取れる魚の名まえがハワイ語で書いてある。