ぜいたくな悩み

 難聴のお子さんがいるお母さんから先日メールをいただいた。「聴覚障害児教育にはいろいろな考え方があってどれを信じていいのかわからない」という。つまり、1)手話は言語習得の妨げになるから徹底した口話(スピーチ)教育がよい、2)絵や写真、身体表現など視覚情報を最大限に取り入れた手話教育がよい、3)手話もスピーチも感覚器官をフルに利用したトータルコミュニケーションがよい、という3つの代表理論に接したが、どれが最も成果をあげているという情報もなく、2歳の息子にはどれが合っているのかわからない、というのだ。それから、私がハワイの大学で勤めていることから「中途失聴の方ですか?」とも聞かれた。普通に会話ができ文章が書ける(ように見える)ので、幼少の言語習得期まではちゃんと聞こえていたが後に失聴した人だと思ったのかもしれない。
 このお母さんには、私自身が上の3つの理論のどれを信じるかということを説明し、またどの方法を選ぶにしても息子さんに対する温かい励ましを忘れないで、というようなことを返事した。それから、私が生後6ヶ月の高熱が原因で聴力を失ったほぼ生来の重度難聴者だということと、小学校時代は普通学級に通いながら難聴専門の耳鼻咽喉科や難聴教室やスピーチセラピーなどに通ったりしたことも書いた。聞こえなくて聞き取り試験ができず悔しい思いをしたこともある。声をかけられたのに返事できなくて「人をシカトするインケンなやつ」のように思われることは今でもざらにある。
ハワイ島の島花、オヒア・レフア。溶岩台地に最初に芽吹く数少ない固有種の一つ。火山ガスが強く硫黄臭のきつい日には気孔を閉じて空気が澄むまでじっと耐えることができる。赤い花の蜜はとても上品な香り。鳥の大好物だ。当地でもレフア・ハニーとして重宝されている

 なので、たとえ自分の信じる方法をとっても、その後の道は決して楽ではない。その時自分がベストを尽くして最新の情報を集め、勉強し、最もよさそうな選択肢を選んでも悩みや困難は常に付きまとう。これは、ちょっと乱暴なたとえかも知れないが、例えば、ガンにかかってどういう治療法を取るか選択肢を迫られた時の状況に似ている。つまり現時点では抗がん剤と放射線治療が西洋医学の主流だが、その副作用の激しさは誰もが知るところだ。だが、この方法をとらない場合は、東洋医学や統合医療(ホリスティック・メディスン)ホメオパシーなどいろいろな代替治療法があって、それらのどれをとるかは、ガンにかかった本人にしか決められない。どれも完璧ではないだろうが、その患者がベストと信じる道を行くことが心の安らぎと自然治癒力を最大限に引き出す。医者も驚く意外な成果を見せたケースはたくさんある。
 難聴児教育これと同じで、(外耳性と中耳性を除き)難聴には完璧な治療はなく、どの方法もいかにして難聴児のとりまく教育・生活環境を住みやすくしていくか、という方法にしか過ぎない。その第一歩の補聴器にしてからがベストなものなどなく、私の補聴器でさえちゃんと数えたわけではないが、初代から数えれば現在使っているものはゆうに5代目以上にはなるだろう。今使っているブランドがベスト、とは思っているが、これも社会人にになってある難聴者と知り合ったのがきっかけだ。彼が自分の使っている補聴器を絶賛していたので、耳型をはずして私に試させてくれたのだが☆、とても音質が柔らかでクリアだったのでその日以来そのブランドに変えたのだ。以来10年以上そのブランドを使っているが、これからもそれがベストブランドかどうかはわからない。次々参入する他社ブランドの新製品にもよさそうなのがあって、今でも常に新しい情報の収集は怠らないでいる。こういう根気のいる作業をしていると、時々「ああ、難聴でさえなければこんな時間に別のもっと楽しいことができたのに」と思うこともあるが、そういう時は、カリフォルニア在住時、生活保護を受けていて補聴器すら買えない難聴者に会ったことや、日本やアメリカの古い補聴器を寄付してもらって使っているベトナムの難聴学級の子どもたちのことを思い出す。少なくとも私や上記のお母さんの悩みは、努力さえすればいろいろある選択肢(情報)を知ることができて、その中から自分(や子ども)にあったものを選ぶことができる、という贅沢な悩みなのだ。
☆他人の補聴器を試す、というのは(たとえ耳型をはずしても)本来すべきではない。たまたまこの難聴の友人と私の失聴のレベルや性質が似通っていたのでこのお試しは私にとっては有効だっただけで、他の人には勧められない。