アドボカシーの三歩目と四歩目

 前号で、アドボカシーの最初の二歩について書いた。最初の一歩が障がい者自身が不満や要望を訴えること、二歩目がそれを最初に聞くカウンセラーなどの専門家(または近い家族・友人でもいい)がしかるべき判断と行動をとること。でもアドボカシーはここで終わらない。少なくとも三歩目と四歩目がある。それは、障がい者自身への教育と、理解不足の一般社会に対する啓蒙だ。

ボルケーノ村のファーマーズ・マーケット(朝市)。人気のベーカリーにて

前号のローラは、不満の叫びを上げたことで、まずアドボカシーの基本のスキルはある。が、訴え方の点では慣れない人が聞いたら助けてあげようという気にはならないかもしれない。いかにも不満げな顔、みすぼらしい身なりで周囲にやっと聞こえるようなか細い声でひたすらぶつぶつ文句を言い続ける。聞くほうにとっては不愉快だし、延々ととまらないので会話にならず、第一どうしてほしいのかよくわからない。彼女の障がいのことを知っている身内やカウンセラーなど専門家は立場上、そのこと自体を取りあげる前に、彼女をまず助けようと走る。ただ、長い目で見たらこの「救済策」だけではローラの人となりは永遠に変わらないし、彼女を見る周囲の理解・態度も変わらないだろう。
 そこでアドボカシーの三歩目に必要なのは、このローラに対して、常識的なものの頼み方や社会的に受け入れられる程度にきちんとした身なりなどを教育することだ。四歩目は逆に、見えない障がいの中でも特に誤解されることの多い精神障がい者について、一般社会の理解を促すことだ。ローラの感想文に最初厳しい添削をした社会科の教官などは、おそらくローラの第一印象のみで公正な採点をしなかった疑いがある。それにしても教官だって人の子だ。印象が悪く自分に楯突く学生よりはそうでない学生のほうに好感を持つのは人情だろう。鬱々とした顔にホームレス同然の身なりで不満ばかり並べる人を好んで助けてあげようという気にはなりにくい。障がい者個人の能力によってできることは異なるが、障がい者自身は自分の訴えを気持ちよく聞いてもらえるために努力しているだろうか。また、周りの一般社会は人を見てくれだけで判断していないだろうか。それに気づけば、そこから双方の歩み寄りが始まり、真に障がい者に理解ある社会が生まれる可能性がある。障がい者であり、一般社会でもある自分に自戒をこめて。