陪審制度の教育的意義

 近所の友人ローラが最近興味深い話をしてくれた。この半年間、彼女は月一回ハワイ島の反対側にあるコナまで陪審審理の義務に出かけているという。陪臣に選ばれた人は皆その日は公休をとって仕事を休む。アメリカでは長いこと国民の義務として定着している制度だが、その内容はいろいろあって大きな刑事事件の公判に一度、二度出ればよい場合もあるが、小さな民事事件の審理の場合は月に一回一年間の義務など、形式は多様だ。以前、私の同僚は非常に複雑な背景の殺人事件の公判陪審審理で一ヶ月も仕事を休まなければならなかったことがあった。これに反してローラの場合は、月に一日で一年間、市井で起こった様々な軽罪の審理を扱う。
 ローラの陪審義務体験談を聞いていて、それまで陪審制度について余り知識がなかった私が感銘させられたことがいくつかある。一つは、検事が陪審団の中からより社会経験があり教育の高い人を指名して、若手や審理の内容の理解が難しい人たちを助ける役目につけるということ。非公開の審理の間にローラは若者たちや審議内容が理解できない人たちにいちいちわかりやすく説明するのだという。非常に相互扶助的、教育的なシステムである。
コナの海岸でバーベキューした魚とサラダとワインで極楽ディナー

 二つ目は、教師だからなおさらにこういう感じ方をするのだろうが、「いろいろな罪状を聞いていると、社会のシビアな現実を目の当たりにして驚くことも多いけど、大半の内容は今自分が毎日接している(学校の)子どもたちがどういう家庭環境や地域で育てられているのか、その現状が良くわかっていい」というローラの視点である。母と娘が殴り合いのけんかをした末に双方とも傷ついて、送られた病院の急患でも罵詈雑言を吐きつづけ応対した医者にまで凶器を振るった話とか、背筋が寒くなる話を聞かされても、そう思うのだという。
 社会のどん底に澱のようにたたずむ暗い家庭の真実を市民に真っ向から見つめさせ、その解決を考えろ、とまでは言わないまでも、自分たちの生きる地域の問題を身近に理解させる機会を与えるのが陪審制度なのだ。陪審制度は社会の縮図を見せる、社会教育の場なのだ。