ユニバーサル・コース・デザイン(1)

 昨日キャンパスで、ユニバーサル・コース・デザイン(UCD)についての研修講義があった。ハワイ大学機構で働く職員には教える教授・講師だけでなく、より優れた高等教育教授者・サポートスタッフになるための研修がしばしば開かれる。昨日の講義はその一環で、30名ほどの教授陣とスタッフが参加した。
 ユニバーサル・デザイン(UD)という言葉は、私がまだ日本に住んでいた90年代の初め、障害のあるなしに関わらず使える商品・サービス・建築や情報のアクセシビリティなどについて研究をしていた小さなグループ(E&Cプロジェクト)が推進していたコンセプトだ。私も聴覚障害者一個人として調査に関わったり、そこの書籍☆☆の一章を執筆したりとご縁があった。今そのグループは、共用品推進機構☆☆☆という立派な財団法人になっている。
 さて、昨日の講義はそのUDのコンセプトの派生ではあるが、商品や建築などハードウェアの話ではなく、大学の講義をどうやって障害のあるなしに関わらずすべての学生にも理解しやすいものにしていくか、というサービスやプログラム、つまりソフトウェアの話である。特に、アメリカのコミュニティ・カレッジ(2年制短期大学)は高校の卒業証書か大検合格証明があれば、受験などなく老若男女だれでも入れるから、50代以上の高年層、刑務所上がりの社会復帰組、アルコール・麻薬中毒からのリカバリー組、子どもを3人抱えたシングルマザー、高校を卒業したばかりの若者など実に多様な学生層である。障害のあるなしもこの実に多様な学生層に関わるから、どんな学生がクラスにいてもみなに効果的な教授法を考えるのが今の教授・講師陣の最大の急務なのだ。
マカダミア・ナッツ割り器。こうやって割って← きれいに割れました↓


 講師のボイル先生は自ら大学でアメリカ文学史を教えていたときの失敗談を交えながら、自らどうUCD教授に進化していったか話してくれた。例えば授業で配るプリント類。「私たち多くの教授・講師陣は自分が教育を受けたときの教育法、つまりひたすらしゃべる、ということをいまだにしている。だが、現在の若者は生まれたときからコンピューター、スマートフォンなどに囲まれて育ち、ひたすら聞くより見ることのほうにずっと慣れている。だから教える側はしゃべることを少しでも減らし、もっとビジュアルなど聴覚以外の感覚器官にうったえる教え方工夫をしなければならない」とボイル先生。
 それに対し、「限られた授業時間内に最大の情報量を伝えるためには、話すのが一番効果的」と、ある教授から反論が出た。それに対してボイル先生は「でも学生はあなたが話したことを全部理解できたのでしょうか?」もちろん答えは「ノー」である。つまり、この教授の言い分には一理あるのだが、教育の目的は何なのかを自らに問えば、いくら自分が多くの情報を学生に伝えたつもりでも、受け取る側、つまり学生が全部理解・咀嚼できないならば、教え方(伝え方)を変えなければならない、ということだ。
 昔の(いやもしかすると今も)ひたすら先生の話を聞くという「オールド・スクール」スタイルで学んだ40代以上の中高年教授陣にとっては耳の痛い言葉だったろう。特にコンピューターや最新テクノロジーに疎いものにとっては「耳」どころか「頭」の痛い話である。が、自分がなぜ教えたいのか、自らの職業倫理・哲学、つまり初心に戻って考えるならば、学生にとって最も効果的な教師になるためには何をしなければならないのか、おのずと答えは出てくるのではないだろうか。

アクセシビリティー日本語に訳しにくいが、情報や建築物・プログラムなどが、障害のあるなしに関わらずすべての人に入手・接近しやすいか、その難易度
☆☆「バリアフリーの店と接客」(日本経済新聞社)1999年 4月刊
☆☆☆http://www.kyoyohin.org/index.php