たかが言葉、されど言葉(2)

 「言葉を変えることで人の態度を変えるきっかけになるかも」というニック君の言葉からいろいろ考えた。私が今までなんとなく「障がい者」とか「障害者」と一貫せずに書いてきたのは、自分自身どちらがいいのかよくわからないからだ。自分の人生のほとんどの期間を「聴覚障害者」として生きてきたので今さら「障がい」とはわざとらしい。漢字三文字で表されるが「しょうがいしゃ」の一文字をひらがなに残すことで、かえって「害」を浮き立たせているように思う。そしてどう表記しようと日本語ではどうしても「しょうがい」が「者=人」の前に来てしまう。だからあまり私自身の障害者に対する気持ち・態度という点では変化がない。
 昨日のニック君の言質には、主に障害者差別する人の気持ちをもっと中立的・積極的なものに変える、という希望があったと思う。英語のリターデーションは日本語の「白痴」に近いくらい侮蔑感がある。そういう妹を持った兄としては当然の発言だろう。日本でも近年「精神分裂病」が「統合失調症」になった経緯と似ているかも知れない。
溶岩台地のわずかな隙間と水で育つオヘロ・ベリー。キラウエア火山の女神ペレの好物とされる。クランベリーに似ていて甘酸っぱい。最初のひと粒は火口に住むペレに捧げ、二粒目から食べてよい。手前味噌だがボルケーノ村産のオヘロ・ベリージャムは絶品。

 現在英語圏では「障害」に対してはDisability(ディスアビリティ)が中立的で政治的に最も正しい言葉(ポリティカリー・コレクト)として用いられている(国連WHO規定)。だから「障害者」はPeople with Disabilitiesとなる。ここで重要なのが「人」がまず先にきて「障害のある」が後に来る点だ。日本語自体の限界があってこういう変換はできないが、形容詞を後につけられる英語の利点が障害者自立運動などに大いに貢献したことは事実だろう。
 今日本では障害者に対する差別表現をなくそうとするあまり「言葉狩り」などという言葉さえ出てきた。「障がい者」と書いてほしい、と障害を持っている側の人から要請されたならそうすべきだろうが、彼らの心情を害さないようにと心配するあまりになんでもかんでも「障がい」とするのは行き過ぎ、という人もある。今では笑い話になるような話が以前アメリカでもあった。例えば、太り気味の人のことを「水平(横)方向に挑戦を受けている人」、背の低い人のことを「垂直(縦)方向に挑戦のある人」といってみたり。丁寧にしたつもりだったが「やりすぎだ」ということで、今ではシンプルに「太りすぎ・太り気味」とか「短躯の人(英語ではやはり、「人」が先にきて後に「短い」となるが)と単に言っている。このような言い方に戻ったからといってこういう身体特徴がある人たちの団体などからもクレームが出た、ということも聞かない。
 日本語の「障害者」に問題があるとすれば、それはその人自身に何か欠陥がある、と言う感覚がいまだにぬぐえない点だ。英語圏でも70年代後半くらいまではハンディキャップト・パーソンとか、ハンディキャップのある子どもとか言っていた。この言葉が今では人に対してはほとんど使われなくなったのは、Handicap= Hand and Cap、つまり、野球帽を逆さに持って差し出す行為が物乞いの行為に似ているので嫌われたからだという。今ではハンディキャップはゴルフのハンディのように、社会制度やインフラストラクチャーなど環境側の欠陥にしか使われなくなっている。今日本でハンディキャップのある人、ハンディキャップ学級という言い方が尊敬の念があってよろしい、と言う人たちが出てきているとしたら、それは英語とは全く反対の感覚と経緯であることを理解した上でのことではなさそうだ。日本人は英語の原義から全く離れてカタカナ造語をうまく普及させる特技があると思うが、それでもいいから日本人の心の中に真の信頼感とか尊敬の念を植えつける効果があるならば、どんどんカタカナ造語を駆使して障害者差別の撲滅に役立ててほしいと思う。