言うべきか言わざるべきか

 今朝、ラボのオープン前にネットをみながら朝食のパンをかじっていると、ドアのガラス窓越しに覗く目があった。応対してみるといつもは見ない顔。だが両目に涙をうるませて今にも感極まりそうだ。「あなたミホ?ちょっと話を聞いてくれない?」という。で、食べかけのパンをおいてテーブルに誘い彼女と向き合って座った。
ハワイ島の障がい者仲間とハイキング

 彼女の名はメリッサといい看護学部の学生。この春学期が二期目でどうやらドロップアウト寸前だと言う。「実は今まで障害があることを隠していた。でももうだめ。明日、担当教官二人と学部長と会議があって、その時にちゃんと抗弁できないと、学業不振で退学させられる」という。だから障害の説明と合理的配慮を説明したレターを書いてくれ、という。で、どうして障害のあることを今まで隠していたかを聞くと、看護学部は軍隊みたいに厳しいから、「身体にちょっとでも欠陥があると知られれば、最初からイジメや追い出しの対象になると思って怖かった」という。だが、障害を隠していたがために、宿題はいつも締め切りまでに出せない、朝一番のクラスにいつも遅刻する、クラス中は水も飲むこともままならぬため、脱水症状を起こしかけて授業が身に入らない、などなど周囲には怠慢としか取られない。
 メリッサには炎症性のリューマチと胃のバイパス手術を受けたために食物の消化にものすごく時間がかかる。また飲食後はインシュリンが急上昇して半失神状態になるなど、私が聞いていても複雑な障害のあることがわかった。だが傍目にはごく普通の人。内部障害のあることを去年入学したときに「隠す」ことに決めてしまったがためにこれまで痛い思いをし、もう一年目も終わり近くになって障害のあることを暴露して必要な合理的配慮を受けたいと言う。
 障害を受容することは合理的サポートを受ける第一歩。今まで隠していた時代をさかのぼってまで配慮を受けることは普通は難しい。ならばせめてこれからはどうか、というと、合理的配慮というのはあくまで障害学生がクラスメートと同等のスタート地点に立てるよう、授業や試験や実習に同じ条件で望めるようにお膳立て、つまりアクセスの平等を保障するところまであって、遅刻厳禁の必須授業や実習に対して彼女にだけ遅刻を認めさせたり、宿題の提出を遅らせてもいいようにさせるというような「特別扱い」のことではない。内部障害があるために確かに普通の人よりも何倍の時間をかけて食事をしたり出かける準備が必要なメリッサなのだが、学科のカリキュラムの根幹を変えさせるような要求に対してサポートすることは、いくら障害学生センターといえども難しい。
 視覚障がいのある人が運転手の仕事に応募しても採用されないのは差別ではなく、必要とされる職務をいかに合理的配慮をもってしても遂行できないからだ。身体に重い障害のある学生が看護師になりたいという本人の気持ちは他の人に劣らないのだろうが、やはり看護師になるために必要な宿題や学科や実習を他の学生と同じようにこなせなければならない。歴史にイフ(もしも。。。だったら)は禁物というが、もしメリッサが入学時に堂々と「私にはこういう障がいがあるからこのように配慮してほしい」と言っていたら今頃どうだったか、と思わざるを得なかった。