レッテル

 今日ラボでちょっとした「事件」があった。見かけない顔がやってきて質問するので、学生アルバイトのジルに頼んで手伝わせた。しばらくするジルが私のところへやってきて「こういう情報がほしいって言っているが、どこを調べたらよいかわからない」という。私にもわからない内容だったので、別室の上司のところへ言って情報をもらい、ラボに戻った。そしてジルに代わり、「失礼ですが、私は○○と言います。あなたはあまり見かけない方だけど、コクア・ラボの登録者ですか?」と聞いた。
パホエホエ溶岩

 すると、彼女(Aとする)はいきなり大声で「ああ、あたしゃ知恵遅れ(英語のリタード、現在は差別用語)だよ!もっと証明書がいるのか!」と怒鳴った。そしてぶるぶると震えだすと突然、「どいつもこいつも役に立たないやつばかりだ、こんなところでてってやる!」と叫んで去りかけた。するとすぐ後ろで宿題をしていた常連のフィルが猛然と立ち上がって、「なんだてめぇ、無礼なこというな!彼女(筆者)は仕事をしているだけじゃないか!」と食ってかかった。二人があわやけんかになりそうだったので私とジルはあわてて二人の間に入ってとにかく双方を静めるのに必死。私はフィルに向かって立ちはだかり、ジルはAに向かって両手を挙げる。それでも二人は私たちをはさんだまま延々と口角泡を飛ばして今にも殴り合いになりそうだった。幸いAは怒り続けながらも出て行った。大柄な二人の間に小柄な私とジルがよくとっさに割って入れたもんだ、と今でこそわれながら感心するが、思い返せばちょっと怖かった。たまたまそのころ廊下を通りかかった若い男性教授が、内部の大声を聞きつけて入ってきたが、「ガードマンを呼びなさい」と言ったきり、何もせずまた出て行ったくらいだから。
 その後、怒り狂ったままAは私の上司の部屋でも口汚く私たちのことを散々ののしった挙句、そのまま建物を出るやキャンパスはずれの学生部長のところまで行って、正式に不満をたたきつけたらしい。
 私の上司はなんとなくAのことを覚えており、古いキャビネットを探るとAのファイルが出てきた。3年前の学生で1年ちょっと在学しただけで成績と出席不良で退学処分になっていた。何かの理由で復学したくなったのだろうが、Aには3,4のかなり深刻な精神障がいがあることもわかった。「障がい学生サービスの登録者か」ということを私は「障がい」という繊細な用語を使わずに「ラボの登録者か」とよく聞くのだが、これにも素直に「はい」と言えず、「どうせ私は知恵遅れ」というような自虐的な自己表現しかできなかったAは、もしかすればそれまでAが育ってきた環境を物語っていたのではいないだろうか。さんざん周りから言われ続けてきた否定的なレッテルがA自身の中に定着してしまったのではないか。耳が痛くなるほど社会から、お前は「知恵遅れ」だの、「脳が足りない」だのネガティブなことばかり聞いて育てば、誤った自己評価の内在化ということが起こるということは心理学では知られたことだ。怖かった反面、Aに対して少し同情もしてしまった一日だった。