震災ボランティア体験記(1)−助ける者と助けられる者

 二週間ちょっと日本へ帰省していた。そのうちの一週間は、仙台近くのW町で震災復興のためのボランティアをした。そこへ着くまでの私は、福祉の勉強や仕事の経験を生かして避難所や仮設住宅にいる被災者の方や障がい者のサポートのお手伝いのような仕事ができれば、と思っていた。が、同時に、一週間程度の短期間で、関わる人との信頼関係を大前提とするそういうシリアスな仕事がまともにできるわけはない、とも思った。実際そのとおりで、避難所関係の仕事は被災された方たちが長期間にわたって従事されていた。地域の相互扶助の現場を見てうれしく思った。
 私はよく、福祉に携わる者としての自戒もこめて「天は自ら助けるものを助く」という言葉を思いだす。震災ボランティアの現場もよく見ると、被災された地元の方自身がボランティアのリーダー格をされていて、これこそが理想的なボランティア体制だ、と思った。被災していないよそ者がしゃしゃり出て行って、ああだこうだと指示したり、専門知識に任せてあれこれと質問を浴びせかけるので、被災者の人たちが辟易している、というニュースを聞いていただけに、地域互助性の強いこのボランティアセンターにはとても好感が持てた。
 自ら被災しながら長期にわたってボランティア活動をし、3ヶ月余たった今ではリーダー的存在になっている人のうち3人と親しくなる機会があった。一人は福島原発第二発電所で働いていたHさん。発電所近くに住んでいたため第一原発事故とともに20キロ圏外退避を余儀なくされ、契約社員だったため仕事も自然消滅。W町へ来て以来、その柔らかな人柄と抜群のリーダーシップで県外のボランティア初心者でも安心して一緒に活動できる。過去のボランティアの落書き・署名・イラストが、今は「自宅」となった彼の白いバンを埋め尽くしている。
 二人目はI市の病院で介護福祉の仕事をしていたOさん。巨大津波が押し寄せたとき二階にいて助かったのだが、一階の駐車場が泥水で埋まり周囲が騒がしくなるまで気づかなかったほど患者さんのケアに没頭していた。瓦礫の中から見つかった海水まみれの写真を丹念に洗って乾かす、という一見単純だが根気がいり、震災遺族にとってはとても意義ある作業をする班のリーダーを務める。 
 W町の震災遺留品展示テント。隣に作業所テントがあり、自衛隊の瓦礫撤去班から運ばれてくる写真などの遺留品をボランティアが丁寧に洗い復旧できるものはして、テントに展示する。毎日遺族が遺品を捜しに来る。

 そして三人目は家が全壊、車を乗り捨てて命からがら走って津波を逃れたというKさん。本人は迷惑に思うかも知れないが、ボランティアのテント村で「寮長」さんのような存在だった。風の吹きさらすあずま屋(休憩所)をビニールやダンボールで「壁」を作って覆い、被災した自宅からさまざまな台所用品・生活必需品を持ち込んでボランティアのための俄か「台所・食堂兼団欒場」にしつらえた。「他人のためにした、といわれると心外」と反論されたが、彼にしてみれば、自宅を失った今、やはり危機一髪で助かったご両親と一緒に狭くて欠陥だらけの仮設住宅に押し込まれ「息が詰まるような」生活を強いられるよりはテント村の生活のほうが気楽なのだとか。もちろん、今までのところは、の話だが。
 助けに行ったつもりが逆に、被災者ボランティアから大いに生きるエネルギーをもらって帰ってきた。助けるのと助けられるのは同じことなのかもしれない。